1368段の石段の先に何があるのか――2026年、激動の観光再編のなかで「こんぴら信仰」が問い直す祈りの正体
琴平 神社の表参道に漂う、朝霧と蒸したて饅頭の甘い蒸気。息を弾ませながら見上げる石灰岩の石段は、深い杉木立の奥へと消えるように伸びている。「一生に一度はこんぴら参り」――江戸の庶民が熱狂したそのフレーズは、2026年の今、まったく異なる響きを伴って列島を揺らしていた。過剰なデジタル社会と目まぐるしい移動の中で疲れ果てた国内外の旅人たちが、四国の山腹を目指して押し寄せている。午前6時。静寂を切り裂く神職の大太鼓が山肌に木霊した瞬間、観光地の浮ついた喧騒は消え失せ、何百年と積み上げられてきた純粋な祈りの重みだけが肌に刺さる。
杖を突きながら700段付近で足を止めた東京からの参拝者は、吹き出す汗をぬぐいながら「自分の足で苦しまないと手に入らない景色がある」と呟いた。急激なキャッシュレス化や観光の自動化が進む現代において、琴平 神社が頑なに守り続けるこの過酷な参道体験は、むしろ現代人が渇望していた「身体的な手触り」そのものなのかもしれない。
785段を登り切った先にある静寂と、インバウンドの熱気
御本宮までの石段は785段。さらにその奥、奥社である厳魂神社(いづたまじんじゃ)までは1368段に達する。途中で引き返す者は少なくない。ふくらはぎが鉛のように重くなり、心臓の鼓動が耳の奥で激しく鳴る。だが、本宮拝殿の広場に辿り着いた瞬間、視界は一気に開ける。眼下に広がる讃岐平野と、おだやかに霞む讃岐富士(飯野山)。そのパノラマを目にした参拝者の口からは、国籍を問わず感嘆の息が漏れる。
2026年現在、四国への直行路線や地方分散型の観光ルートが整備されたことで、欧米やアジア圏からの個人旅行者の姿が急増した。彼らが買い求めるのは、金色の地に「笑」の文字が踊る黄色いお守りだ。あるフランス人観光客は「京都の整えられた庭園とは違う。ここは自然の山そのものを身体で征服し、神と対話する場所だ」と語る。汗だくになりながら登る苦行そのものが、唯一無二のエクスペリエンスとして世界に共有されている。
伝統と決別の余波――独自路線を突き進む宗教法人としての覚悟
香川の象徴である金刀比羅宮は、数年前に全国の神社を取りまとめる神社本庁から離脱した。当時、宗教界を揺るがした独立劇の波紋は、2026年を迎えた今、独自の文化財保護と開放的な運営モデルという果実を結びつつある。
しがらみから解き放たれたことで、境内にある重要文化財や円山応挙の障壁画を巡るキュレーションは一段と磨きがかかった。伝統的な祭祀の厳格さを守り抜く一方で、夜間特別拝観やアート展示といった現代的なアプローチを矢継ぎ早に打ち出す。組織の縛りを捨て、自らの足で立つ道を選んだ「こんぴらさん」の姿は、檀家離れや後継者不足に喘ぐ日本の宗教界全体において、極めて異質な、しかし無視できないモデルケースとなっている。
海を越え、空へ――現代ロジスティクスと宇宙産業が託す守護神
もともと農業や殖産、そして何より「航海安全」の守護神として信仰を集めてきた大物主神(おおものぬしのかみ)。境内の絵馬堂には、昔ながらの木造船の絵馬に混じって、現代の巨大タンカー、自衛隊の護衛艦、さらには海洋探査船の写真が壁一面にびっしりと並ぶ。
興味深いのは、2026年という時代を象徴するように、海運企業だけでなく物流大手や航空宇宙関連ベンチャーからの祈祷依頼が目立っている点だ。自動航行船の実用化が進み、ドローンが空を交錯し、民間の宇宙輸送が現実味を帯びる今だからこそ、技術の限界を超えた不確定要素に対する「神頼み」が切実さを増している。どれほどセンサーやAIが進化しようとも、荒れ狂う自然の前に人間は無力だ。無事故を祈るエンジニアたちの真剣な眼差しが、何百年も変わらない祈祷殿の前に並んでいる。
「登れぬ者」を置き去りにしない――石段文化とバリアフリーのせめぎ合い
古き良き風情を称賛する声の裏で、深刻な課題も横たわる。かつて参拝者の移動を助けた名物の「駕籠(かご)」が完全に姿を消してから久しい。高齢化が進む日本において、785段の石段はあまりにも高い物理的障壁だ。「祈りたいが、足が動かない」という現実的な声に、聖域はどう応えるべきなのか。
地元自治体と周辺のエンジニアコミュニティは現在、石段の景観を一切損なわずに高齢者の歩行を補助する超軽量のアシストスーツや、参道裏手からの環境配慮型グリーンスローモビリティの限定運行実験を進めている。だが、古くからの門前町関係者の中には「苦労して登ることに意味がある」とする慎重論も根強い。祈りの平等性と、苦難を伴う信仰の真正性。観光地としての利便性と聖域の純度の間で、現場は今も繊細な舵取りを続けている。
知られざる「町の琴平さん」――全国に根を張る分社のサバイバル
香川の総本宮ばかりが脚光を浴びがちだが、日本全国を見渡せば「琴平神社」や「金刀比羅神社」と名付く分社は数千社に及ぶ。東京・虎ノ門の高層ビル群の谷間に鎮座する神社から、横浜の住宅街、北海道の港町まで、そのネットワークは驚くほど広大だ。
しかし、地方の分社が置かれた現実は甘くない。人口減少と過疎化の直撃を受け、専従の神職を置けない兼務社が激増している。そんな中、神奈川県川崎市や徳島県内の小さな琴平神社では、地域住民が主導するマルシェの開催や、SNSを活用した祭祀のライブ配信など、独自の生き残り策を模索する動きが目立つ。中央の有名社だけでなく、日々の生活道路の脇にひっそりと佇む無名の社をどう次世代へ手渡すか。信仰のインフラ維持という難題が、全国各地で突きつけられている。
消費される観光コンテンツから、再び「魂の避難所」へ
ファストな消費が支配する現代において、琴平の山を登るという行為は、極めて無駄が多く、非効率な時間の使い方に見えるかもしれない。スマートフォンの画面をタップすれば世界中の絶景が高解像度で見られる時代に、わざわざ筋肉を痛め、息を切らして山を上がる。
だが、実際に境内を踏みしめた参拝者たちが口を揃えるのは、頭の中の雑音が消え去るような強烈なリフレッシュ感だ。自分の足で一歩ずつ進まなければ、決して前には進めない。その単純明快な事実が、情報過多で迷走する現代人の精神を静かに調律していく。琴平の山肌に刻まれた石段は、単なる歴史の遺産ではない。利便性とスピードに溺れかけた私たちが、人間としての輪郭を取り戻すための、生きた装置として今も呼吸を続けている。 (出典: 琴平 神社(Yahoo!ニュース))