金刀比羅宮の石段を登り切った者だけが出逢う極楽——2026年、なぜ私たちは再び「こんぴら温泉郷」の湯に癒やされるのか
琴平 温泉の湯煙が朝靄に溶け出す午前6時、象頭山の麓に広がる門前町は、静かな、しかし確かな熱気とともに目を覚ます。石畳を擦る竹箒の乾いた音、仕込みを始めたうどん屋から漂ういりこ出汁の芳醇な薫香。参道を行き交う人影はまだまばらだ。江戸の庶民が一生に一度の救いを求めて伊勢と並び目指した「こんぴら参り」。その長い歴史の舞台に平成初頭、まるで神仏の引き合わせのように湧出をみた温泉は、今や四国を代表する癒やしの拠点として確固たる地位を築いた。
本宮までの785段、あるいは奥社へと続く1,368段もの過酷な石段を踏破した参拝者の足を、吸い付くような湯触りで芯から包み込む琴平 温泉の泉質は、旅人への最良の報奨と言っていい。かつての旅人が丸亀街道を草鞋履きで歩き通し、ようやく辿り着いた旅籠で足を洗った瞬間の安堵。その身体的な解放感を、現代の旅情と重ね合わせて追体験できる稀有な湯処がここにある。デジタル疲れの激しい2026年を生きる私たちが求めていたのは、まさにこの「身体を酷使した直後に訪れる、圧倒的な脱力」だったのではないか。
石段の疲れを芯からほどく、三つの源泉と「美人の湯」の魔力
こんぴら温泉郷の湯を一度でも肌に滑らせたことのある人なら、その独特のまろやかさに驚かされるはずだ。現在、町内には主に三種類の源泉が引き湯されている。中性から弱アルカリ性の単純温泉をはじめ、炭酸水素塩泉、さらには肌の角質を滑らかに整えるとされる塩化物泉まで、宿によって引く湯の個性が微妙に異なる。
ぬるめの湯に身を沈めると、硬直していたふくらはぎの筋肉がほぐれ、張り詰めた神経がほどけていくのが分かる。無色透明でさらりとした肌あたりながら、湯上がりには驚くほど肌がしっとりとし、体の奥深くに温もりが長く居座る。かつて「金毘羅大権現」の加護を願った人々がこの地で心身を清めたように、物理的な泉効と精神的な晴れやかさが、湯船のなかで溶け合っていく。
老舗宿が仕掛ける静かな革新——サウナと数寄屋建築の幸福な共存
琴平の旅館街を歩くと、数百年続く老舗の矜持と、今の時代に合わせた意欲的なアップデートが絶妙なバランスで同居していることに気づかされる。森鴎外や与謝野晶子ら文豪が筆を執った数寄屋造りの名宿から、見晴らしの良い展望風呂を擁する近代的な旅館まで、選択肢の幅は広い。
ここ数年で顕著なのは、各宿が取り入れたプライベートサウナや半露天風呂付き客室の進化だ。象頭山の稜線を借景にした外気浴スペースに身を預け、門前町の鐘の音を遠くに聞きながら整う時間は、格別の贅沢と言える。伝統的な和の設えを大切に守りながらも、無駄な贅飾を削ぎ落とし、個人の静かな内省を促す空間づくりへと舵を切る宿が増えている。
早朝の釜揚げから夜の骨付鳥まで——湯上がりを彩る讃岐の食
湯巡りの合間に門前町を歩けば、胃袋を刺激する香りが絶え間なく鼻腔をくすぐる。琴平での朝は、湯浴みを済ませてから近隣の名店へ足を伸ばし、打ち立て・茹で立ての讃岐うどんを啜ることから始めたい。イリコの効いた黄金色の出汁に、エッジの立った麺。朝の胃袋に染み渡るその一杯は、どんな高級ホテルの朝食にも代えがたい力強さがある。
日が落ちれば、空気は一変して芳ばしい肉の匂いに包まれる。香川の名物「骨付鳥」だ。ニンニクと胡椒がガツンと効いたスパイシーな親鳥を豪快に噛み締め、溢れる脂をキャベツやおにぎりで受け止める。地元の蔵元「金陵」の辛口の冷酒を喉に流し込めば、石段を歩き回った疲労感さえも心地よいスパイスに変わる。門前町ならではの気取らない食の豊かさが、この街の夜をどこまでも深くしている。
現存最古の芝居小屋「金丸座」と、路地に息づく文化の重み
温泉街の散策で絶対に外せないのが、天保6年(1835年)に建てられた現存する日本最古の芝居小屋「旧金毘羅大芝居」、通称・金丸座だ。江戸時代、金毘羅参りの富くじ興行とともに発展した芝居文化の熱気を、今なおその木造建築の骨組みに宿している。
客席の枡席、人力で動かす廻り舞台、奈落の構造。薄暗い小屋の中に立つと、往時の人々が歓声を上げ、役者に熱狂した気配が足元から立ち上がってくるようだ。2020年代に入って進められた令和の大改修を経て、伝統の舞台装置はより鮮明にその息吹を伝えている。単なる保養地にとどまらず、庶民文化の爛熟した記憶を肌で感じられる点こそ、琴平が他の温泉地と決定的に一線を画す理由だろう。
奥社「厳魂神社」までの踏破で見える、現代人の精神的デトックス
本宮の拝殿前で引き返す参拝客は少なくない。785段でも十分な運動量だからだ。しかし、もし体力に少しでも余裕があるなら、そこからさらに583段を登り、標高421メートルに位置する奥社「厳魂神社(いづたまじんじゃ)」を目指すことを強く勧めたい。
本宮を過ぎると観光地の賑やかさは潮が引くように消え、空気は森の静寂に取って代わられる。鬱蒼とした杉木立のなか、自らの呼吸の音と足音だけが響く参道。断崖絶壁に天狗と烏天狗の彫刻が穿たれた奥社に辿り着いた瞬間、視界の先には讃岐平野と瀬戸内海の青いパノラマが一気に広がる。スマートフォンの画面を閉じ、自分の足だけで高みに到達したという実感。汗で重くなった衣服を脱ぎ捨てて飛び込む湯のありがたさは、この行程を踏んだ者だけに許された特権だ。
2026年のスマートな歩き方——週末の混雑をかわす滞在術
最後に、この魅力的な温泉地を快適に楽しむための実践的なアプローチを記しておきたい。岡山駅から特急「南風」に揺られて瀬戸大橋を渡れば約1時間、高松空港からも直行バスでスムーズにアクセスできる琴平は、週末の1泊2日トリップに驚くほど適している。
混雑を避け、この街の真価を味わうための最大の秘訣は「時間帯の逆張り」にある。参道が観光客で埋まる日中を避け、石段登りは空気が冷涼な午前7時前後に開始する。戻った午前9時過ぎに朝風呂を浴び、昼間は宿のラウンジや周辺の酒蔵ギャラリーで読書に耽る。そして夕暮れ時、参道の提灯に明かりが灯る頃に再び街へ繰り出す。過度な観光化に流されず、街が持つ本来のリズムに呼吸を合わせること。それこそが、こんぴらの湯と歴史を骨の髄まで味わい尽くす最も贅沢な流儀である。 (出典: 琴平 温泉(Yahoo!ニュース))